アカヴィリ
Akaviri
東方大陸の民アカヴィリは、なぜ帝国を治めたのか?
アカヴィリ(Akaviri)
アカヴィリとは、タムリエルの東方に位置する大陸アカヴィルに由来する人々や、その文化を指す言葉である。アカヴィル(Akavir)が地名であるのに対し、アカヴィリ(Akaviri)は人々を指す呼称にも、「アカヴィルの」「アカヴィル様式の」という形容にもなる。タムリエルの帝国史でとりわけ存在感が大きいのは、第一紀に海を渡り、のちにレマン王朝に仕えたツァエシ系の人々だ。一方、第二紀にウィンドヘルムを襲った軍勢もアカヴィリと呼ばれるが、こちらはカマールから来た。誰のことを指すかは、語られている時代と土地で変わる。
東の大陸にはどのような民がいるのか
ゲーム内書籍『アカヴィルの不思議』は、アカヴィルという名を「竜の国」と説明し、そこに四つの大国を挙げる。以下は同書がタムリエルの読者に伝える東方像である。帝国の史料からも存在をたどれる国がある一方、住民の姿や不死性、竜への変身といった記述の多くは、この書物が伝える伝承に属する。
名称 | 『アカヴィルの不思議』が伝える姿 |
ツァエシ(Tsaesci) | 黄金の鱗を持つ蛇人の国。強大な海上勢力を有し、かつて大陸に暮らした人間を食らったという。タムリエルの人々がアカヴィルと聞いてまず思い浮かべる民だと、同書自身が記している。 |
カマール(Kamal) | 名は「雪の地獄」を意味するという。土地の悪魔たちは夏になると活動し、繰り返しタン・モーへ攻め寄せる。タムリエル側にも、カマールの王が率いた侵攻の記録がある。 |
タン・モー(Tang Mo) | 数多くの島にさまざまな猿人が暮らす。外敵が襲来すると軍を集めて島々を守り、かつて反目したカ・ポツーンとは同盟を結んだとされる。 |
カ・ポツーン(Ka Po’ Tun) | 虎に似た民の帝国。ツァエシに追われた黒竜がこの地へ逃れたことから戦争が起きたという。戦後、民は自ら竜になる道を求め、その君主トシュ・ラカ(Tosh Raka)が初めてそれを成し遂げたと伝わる。 |
蛇人と、人の姿をしたアカヴィリ
アカヴィリにまつわる最大の謎の一つが、ツァエシの姿である。『アカヴィルの不思議』は黄金の鱗と不死の命を語りながら、その姿には人間を思わせるところもあると書く。さらに「人間を食らった」という一節には、いつ、どこで起きたのかを示す証言が添えられていない。この一節だけで、大陸にいた人間の運命まで確定することはできない。[1]
『The Elder Scrolls IV: Oblivion』では、ブルーマ北方のペイル峠で、この問題に別の角度から触れられる。失われた砦への道には命令書を携えた伝令の遺骨が残り、砦の奥では人の姿をしたアカヴィリの指揮官ミシャクシ(Mishaxhi)の亡霊が、今なお報告を待っている。伝令が届けられなかった命令書を、第三紀の冒険者が代わりに手渡すことさえできる。ここで出会うのは東方の民を分類しようとした学者ではなく、第一紀の戦いに取り残された一人の軍人である。その姿は貴重な手掛かりだが、彼一人から大陸全体の住民の姿を決めることもできない。
第一紀2703年――侵略者がレマンに仕えるまで
第一紀2703年、ツァエシの軍勢がタムリエルへ侵攻した。シロディールの勢力をまとめて迎え撃ったのがレマン・シロディールである。両者の歴史が交わる場所として知られるのが、スカイリムとシロディールの間にあるペイル峠だ。戦いののち、生き残ったアカヴィリの一部はレマンに仕えた。こうして帝国は、つい先ほどまで敵だった軍勢から、戦士と助言者を迎えることになった。[2][4]
彼らはなぜレマンを選んだのか。『ドラゴンボーンの書』によれば、アカヴィリの戦士たちはレマンをドラゴンボーンと最初に認めた者たちだった。著者は、彼らが海を渡った目的そのものがドラゴンボーンの捜索だった可能性を挙げ、ペイル峠の出来事をその根拠とする。ただし、この本は第三紀の修道院長が書いたものだ。レマンに忠誠を誓ったという歴史と、最初から彼を探していたという後世の解釈には、隔たりがある。
ドラゴンガードが石に刻んだもの
レマンに仕えたアカヴィリの戦士たちに起源を持つドラゴンガードは、皇帝を守り、ドラゴンを追った。のちにドラゴンボーンの皇帝に仕えたブレイズも、この伝統を受け継いでいる。その結び付きが最もよく見える場所が、『The Elder Scrolls V: Skyrim』で訪れるスカイ・ヘヴン聖堂である。
聖堂には、アルドゥインにまつわる過去と予言を浮き彫りで表した「アルドゥインの壁」が残る。ドラゴンガードの年代記によれば、制作は第一紀2812年に始まった。途中、仕上がりに満足しなかった長が職人を帰したため工事が遅れ、費用にも苦情が出た。それでも工事は続き、第一紀2818年、皇帝レマン二世が自ら聖堂を訪れて完成を祝った。第四紀のドラゴンボーンが目にする壮大な壁には、予言だけでなく、それを後世に読み取れる形で残そ うとした職人たちの仕事が刻まれている。
同じ年代記には、ドラゴンガードと皇帝の意見が衝突した記録もある。第一紀2804年、ウィンターホールドの反乱鎮圧への出動を命じられた聖堂の長は、命令が忠誠の誓いに反するとして拒絶した。皇帝が補給を断つと、聖堂は地元のリーチの民との取り決めを頼りに持ちこたえた。皇帝を守るという誓いが、皇帝のあらゆる軍事命令に従うことを意味したわけではない。
アカヴィリの統治者と戦士ギルドの起源
第一紀2920年、レマン三世とその後継者が命を落とし、王朝が途絶えた。帝国の実権を引き継いだのは、ツァエシの有力者ヴェルシデュ・シャイエ(Versidue-Shaie)である。彼の統治とともに第二紀が始まる。ここでいう「アカヴィリの統治」(Akaviri Potentate)とは、アカヴィル本国の王朝ではなく、アカヴィリ出身の統治者がシロディールを中心とする帝国を治めた時代を指す。[1][7]
その影響は、冒険者に身近な戦士ギルド にも及ぶ。ヴェルシデュ・シャイエが地方領主の軍を解体すると、各地で盗賊に対処する兵力まで失われた。そこでディニエラス・ヴェス(Dinieras-Ves)が提案したのが、報酬を受け取って護衛や戦闘を請け負う組織だった。アカヴィリの言葉で兵士を意味する「シフィム」(Syffim)と呼ばれたこの集団が、戦士ギルドの前身となる。第二紀321年にはギルド法が認められた。
第二紀324年にヴェルシデュ・シャイエが暗殺されると、息子サヴィリエン・チョラク(Savirien-Chorak)が跡を継いだ。第二紀430年には彼とその後継者たちも殺害され、四世紀以上続いた統治は終わる。しかし、タムリエルで暮らしてきたアカヴィリ系の家族の歴史は、そこで途切れたわけではない。
エルスウェアに残った祖先の記憶
『The Elder Scrolls Online』の北エルスウェアにあるハコシャエ(Hakoshae)では、アカヴィリを祖先に持つ住民が暮らしている。町では、世代を重ねた今では帝国人の血のほうが濃いと語られる。それでも、祖先から受け継いだ慣習を守るために開かれるのが「試練の祭典 」である。[9][10]
同名のゲーム内書籍には、町づくりに携わった人物の日記が残る。かつて帝都では柔らかかった手が、新しい故郷では働きづめでたこだらけになった。以前の祭典を振り返れば、一族の領地でのごちそうや踊り、音楽が思い浮かぶ。それでも書き手が誇りを寄せるのは、自分の手で皆の暮らせる場所を築いたことだった。帝国史では統治者の死で一区切りとなる時代が、その子孫の側から見ると、新しい土地で先祖をどう敬うかという物語になる。
第二紀572年――カマールの侵攻
第二紀572年、アダスーム・デア・カマール(Ada’Soom Dir-Kamal)の軍勢がスカイリム北東部に上陸し、ウィンドヘルムを陥落させた。第一紀のレマンが迎え撃ったのはツァエシの侵攻軍だったが、今度の敵はカマールから来た。この違いは重要である。エルスウェアで先祖を祀る人々も、ウィンドヘルムを攻めた兵士も、タムリエル側から見れば同じ「アカヴィリ」という言葉で呼べたからだ。
戦いがモロウウィンドへ移ると、ノルドとダンマーにアルゴニアンの戦士たちが加わり、侵攻軍は敗れた。この共闘が、三者の同盟「エボンハート・パクト」の結成につながる。第一紀の侵攻がシロディールの統合を促したように、第二紀の侵攻もまた、それまで別々の利害を持っていたタムリエルの人々を結び付けた。
第三紀――海を渡ったのは帝国の側だった
第三紀288年、皇帝ユリエル・セプティム五世は遠征軍を率いてアカヴィルへ渡った。帝国は事前にエスロニエトの港を整備し、兵員と物資を海の向こうへ運ぶための輸送船まで建造していた。上陸した軍は海岸の都市をセプティミア、そこから川をさかのぼった内陸の拠点をイオニスと名付けた。
しかし、都市を二つ確保しても、その間を安全に往来できるとは限らなかった。ツァエシの襲撃で陸路が脅かされ、海では嵐が船団を傷つけた。さらに雨が降らず、作物が育たず、拠点を結ぶ川まで干上がった。第三紀290年、ユリエル五世はイオニスからの撤退戦で命を落とす。この遠征を検証し た帝国の報告書は、敵の容姿についてはほとんど教えてくれない。代わりに詳しく残しているのは、ツァエシが帝国軍の補給と移動の自由をどのように奪ったかである。
